表現方法が特に問題となるだろう
童話に限ったことではないが、最近では二次元の作品内に対して巻き起こる表現が著しく問題があると提起されることがある。最近ではそうした意味でテレビが思い切ったことを出来なくなってしまい、つまらなくなってしまったと感じる瞬間もある。そうした傾向は本にも少なからずしがらみは存在していたが、最近は特に厳しく糾弾されてしまう。それまでは表現しても何ら問題なかったものが、突如として子供に悪影響をもたらすからやめてくれ、そんな一言が出てきたらすぐにでも出版は差し止めがされてしまう位だ。やり過ぎだと、表現の自由を剥奪している行為だと表現者達が反論している中で、作家たちもそうした非難を受けないようにするため日々努力している。
そういう意味では童話のように、感受性が強く、まだ世界の善と悪がどのようなものなのかさえも理解していない時期に、物語で表現されていることが世間的に間違っているのに正しいと勘違いしたら、その影響は大人になっても続くものだ。童話の中で物語られる世界はそれだけの力を内包している、表現1つで自分の作品が間違っていると断罪されるだけで作家としてのプライオリティに傷が付けられてしまう。中々大変な問題だが、そういう意味ではこれから先も浴びせられる視線は鋭く尖ったものに変わっていくだろう。
単純な問題として
表現に関してもそうだが、それ以外にも童話作家だけではないが作家になった場合に直面する問題は具体的にこんなところだ。
本が売れない
丹精込めて制作した本、それが最初から売れるとは限らない。中には一部も売れずに返品扱いをされてしまう本などこの業界では山ほどある話だ。どうして売れないのかという原因については、その時時によって違う。というよりも原因というものははっきりとはわからない。例えば企業が物凄い宣伝して書店なども協力して売上を伸ばそうとしても、売れることもあれば、全く売れないこともある。筆者が書店で働いている時も、そういう傾向は良く目にしていたものだ。売れると思っていた商品が売れなかったり、売れないと思っていた商品が飛ぶ鳥を落とす勢いで爆発的に売れたりと、並が激しいのがこの業界の特徴だ。
童話にしてもそうだ、昨今の消費者や母親を含めた読者が絵本に対してどのような内容を求めているのか、試行錯誤しながら執筆していかなければならない。売れる保障もない、ある程度実力と名前が売れる様になれば、ネームバリューだけである程度の部数も期待できるがそうなるまでに時間がかかる。
描けないという問題
作家として活動している人なら絶対に出くわす問題、『描けないスランプ』に突入するということだ。この期間というものは、何をどう考えても創作に対して否定的な考えを持ってしまい、描きたいのに描けない、描かなくてはいけないのに描けないと、そんな自問自答に悩まされる。
どうしたら解決できるのかと言われると、個人的な意見としては時間が解決する、もしくは急ぐ用事もなければ一層書かないように遠ざけてしまうのも1つだ。時間的な縛りがある人は、空いている時間を使って、普段しないような事をして息抜きをする、というところか。無論これで解決する保障もない、むしろ余計にドツボにはまる事もあれば、あっさりと解決する時もある。
スランプ問題は童話作家だけに限らず、どんな分野の作家が一生に一度は必ず出くわす問題だ。また先に紹介した表現方法などに行き詰まったりして発生する、ということもあるだろう。
作家だからこその悩み
いつの時代も共通しているが、作家ともなれば全く新しいものを作らなければならない。プロになればその分だけ背負う業もあれば、与えられる地位もある。ただそうした肩書はあくまで一時的なものにすぎない、長年愛されるような作品を作るとなった単純な努力や技術だけでは足りない。童話作家にしてもそうだ、先に話した工藤直子さんや故松谷みよ子さんといった有名な児童文学家達もまた、様々な苦汁を舐めながらも愛される作品を作り出すことに成功している。そこまで辿り着くまでどれほどの時間がかかるかは分からない、ただ1つ言えるのはどんなに時間がかかろうと自分が納得して『良い作品』と思えるものを作り出せるようになった時こそ、本物になれた瞬間といえる。
道のりは険しく、誰もが歩み続けられるものではないが出来るのであればそのまま作家としての道を直進していくのは悪いことではない。その分だけ覚悟は必要だが、やりがいは十分すぎるくらい感じられる仕事だ。