シビアな時代
そんな児童文学を含めた現代の作家事情についてだが、あまりいい雰囲気ではないことをなんとなく察している人も多いだろう。文章を書くものならやはり業界についての状況をある程度察していると思うが、その中でも特に重要とされているのが『人が本を読んでいるかどうか』という一つの事実が何かと焦点を当てられている。現代はインターネットやスマホなどの機器を使用して文学作品を輩出している傾向もあるため、出版社などもあらゆる方法を用いて試行錯誤を繰り返している。
時代の流れはとても流暢であり、その流れに乗れるか否かでその人の作家としてどうやって成功するかも左右されるものだ。そんな中でも児童文学というカテゴリーで活躍する女性たちには一定の需要があるとも言われている。児童文学をかける女性というのは業界でも大変重宝しやすく、彼女たちの存在があるからこそ児童文学というカテゴリーは未だに現在進行形で発達していると言えるからだ。そう言われると、女性にとって児童文学家への転身は一つの分岐点となり得るのだろう。工藤直子さんや松谷みよ子さんのような先駆者達に続いて、自分たちも成功すると意気込みを見せる人もいるのだろう。
そうした女性たちが躍進する児童文学だが、これからも需要があると見込まれている。少子化が進行していると言われている中でどうしてここまで女性を中心とした児童文学が労働として1つの地位を確立するまでに至っているのか、それにはいくつか理由はあるが、中でも特に最有力として上げられる理由に『児童文学作品をL文学』だとする位置づけが成立している点だ。ここで言うL文学とは、つまりは『女性が読むための文学作品』という意味で、その地位を決定づけている。
閉塞された世界になっている
L文学と呼ばれる作品カテゴリーが登場してそれなりに時間は経過しているが、女性たちも文学作品に対して強い関心を持っている。男性もそうだが、女性には女性にとって読みたい作品や女性だからこそかける世界観をもってして、広く多くの同性達に共感を持ってもらいたいと、そんな意図を思わせる作品が制作されている。文学と呼ばれる作品に限定したら線引が難しいところだが、特に女性たちが女性たちが編集者・評論家・研究家といった職に就職するなどの進出も関係している。ここから浮かび上がってくる事実としては、児童文学という作品は『女性特権として認められ、制作できる文学作品』というような価値観が生まれているとも定義できるのではないか。
そう言われてしまうと、男性の中には文学家として活動していく中で児童文学作品を作りたいと考えている人は出てくるものだ。ただ男性ではそんな作品を作り出せないというようなことはない、表現の仕方や内容について個性というものは千差万別、画一的に表現など出来るはずもない。
しかして、とある男性作家で初めて児童文学を出した時にはお世辞にもあまり収入面ではよほど恵まれていたとは言えないようなものだったという。
作品か、エンターテイメントか
とある人の体験談を見ると作品自体は感銘を受けるようなものだったのかもしれない、さすがに情報だけとなっているため具体的な作品についてはここでは控えさせてもらうが、ただ1つ言えるのは彼の作品で最大の障害となったのは読者ではなく、編集者という問題にあった。
何が合ったのかというと、それは彼の描いた作品を売り出すことになった場合にどのような方向性で行くかという点だ。その人曰く作品が、
- 児童文学というもので売り出すか
- 児童向けエンターテインメント作品として売り出すか
という選択肢に掛けられたと言われている。どちらが一番売れるかと言われたら、今の状況から考えても後者のほうが圧倒的に人気を博しやすいと言える。そこまで仰々しいような知名度を誇らなくても、一般的に言われるようなヒット作ぐらいにはなれる。出版社としても作品が売れてくれなければ困るからだ、それを考えると妥当な判断ではある。だが作家としてはどうだろうか、もしこれで前者の児童文学として作品を描いたにも関わらず、後者のエンターテインメントというような傾向にされてしまったら大元の土台は崩されてしまう。
こうした編集と作家の食い違いは実はよくある話だ、担当編集が作品の一部が気に入らないと判断すれば手直しを作家に要求する。そうした意見もかなり独善的だったりする、中にはそうした態度に我慢できずに喧嘩別れといったことも日常茶飯事だという。作家にとってはそうした編集者に対して気に入られるような作品を作らなければならないといった、そんな強迫観念もこの業界には少なからず根付いているのを否定出来ない。