多くの作家たちに影響を与えた
児童文学というものに対して視点を当てると絶対に、必ず考えなくてはならない部分がある。それは機嫌を読み解くことだ、そもそも児童文学と呼ばれるものがどこから生まれて、どのようにして日本にまでその背景が伝播したのかと考えてみる。こうした歴史的背景を見ると絶対とも言える一つの共通事項として挙げられるのは、何といってもイギリスだろう。このイギリスという地は児童文学の発祥となった地であり、児童文学を語る上でまず見過ごしてはいけないものとして、その存在を認知しなければならない。
ただこうした始まりを紐解いてみると浮かび上がってくる児童文学という定義について少し考えなくてはならない部分が多数出てくる。それを現代の日本における児童文学という性質と、当時から続く海外における児童文学の定義に違いが出てくる事をはっきりと把握する事が可能となる。定義はその国ごとに変わるものだが、やはり大まかな原点となる部分を蔑ろにすることはタブー視される。
ただ先に挙げたような現代の日本児童文学と、一般的に児童文学と呼ばれる定義には掛け離れた理念が浸透していると言える。ただこうした考え方もあくまで1つの例であり、正しくはないと言われてしまうこともあるため、中々はっきりと違いを出すのは難しい部分なのかもしれない。なので、ここではそうした日本特有として発展した児童文学としての価値と、それらと比較してイギリスを機嫌とした児童文学はどのように日本式に変遷していったのか、考察を含めて考えてみる。
おおよその一般的な定義
児童文学と言われてどんな定義を連想するのが基本だろうか、そんな疑問がよぎった時に真っ先に思い浮かぶのは何と言っても子供の存在だ。もとより‘児童’という言葉を使用している時点で想像しない人はいないと思う。先に言っておくとするなら、児童文学とはあえて子供が読むために作られた文学書であると、そう提言して何ら問題はない。むしろそれしか無いだろうと考えるのは普通だが、世界は広く、児童文学と呼ばれる書物も複数の定義が存在するというのだ。
具体的にどんな定義が存在するのかというのを、少し紹介していこう。
- (1)漫画・風刺・辞書に百科事典といった通読を意図していないノンフィクションや参考書といったものではない読み物
- (2)実際に子供が書いた書物
- (3)制限的な意味合いとして、あらゆる方面の分野の『大人』たちが『子供の為を思って』選び、教養として身につけるべきものであるとした書物
- (4)広義の意味として、子供が実際に選んで読ま親しまれている書物
上記のような意味合いを含んだ書物が、一般的に児童文学というものにカテゴリーされていると考えられている。
これらの定義について
ここに見えてくるそれぞれの定義、その中でどれが最も正しい意味合いとして、現代社会で用いられている児童文学として相応しいかを考えると、妥当なものとしてはやはり(1)・(4)だと考える。(2)と(3)についてもわかることには分かるが、(2)についてはあまりに突出した才能を持っているなどの例外が絡んでいなければまともに文学書としての地位を得ることは出来ない。現実的な考え方ではない、ではそれなら大人たちが子どもたちを最優先に考えて選び出した書籍を読ませること、すなわち(3)が正解ではないかという意見が出てくるだろう。しかしだ、制限的という言葉を利用したように、これはあらゆる分野の権威者たちが選んだという時点で、子供の事を第一に考えた本とは言えない。そこに絡んだ様々な大人の事情というものを鑑みれば、到底子どもたちの意思を組んでいるとは思えない。
ほぼ消去法のごとく選んでしまっていると捉えるかもしれないが、それでもやはり子どもたちが自分の意志で選び、自分で読みたいと思った書物が一般的に言われる文学書であった場合にはそれを『児童文学』として認識して問題ないだろう。
どう考えるかは人それぞれだが
こうした定義も一般的でしかない、その定義から外れてもなお子どもたちに親しまれている作品もある。その中には先にも紹介したような、戦争の残虐さを生々しく描いた作品もあれば、時に官能的な場面を連想させるものもあるだろう。そうした表現を大人たちは子供の前から排除しようとする癖がある。教育上宜しくないという考えなのだろうが、それが本当に正しく指導で聞いていると言える。
ただ1つ言えるのは、そうした定義を元にしていまだにどのように位置づけることが児童文学という物を明確な存在へと昇華させられるかは議論され続けているため、結論とするなら児童文学と決められるのは利用している本人しかいないはずだ。